エッセイ書いてコンテストで賞もらい、仕事して印税で暮らしたい」のように……、知らないことがたくさんある年頃、無謀に発言をしてました話。
本好きになり、読書して、仲間内で紙版ブログみたいなものをちまちま書いていて、人に文章を読んでもらう経験をしていたことがあったのが勘違いのはじまり。公募ガイド見て、エッセイを書いて、賞もらって、文章書く仕事して本出版して、印税もらって暮らす。これぐらいのことはできるんじゃないかと考えいることがありました。二十歳そこそこの頃の話ですが……。
その頃は、競馬の「け」の字も、馬券の「ば」の字も知らない頃であります。
そんなことを相談といいますか「この先どうするの」と聞かれて、ほいほい答えてしまったことがあるんですね……。
返事は、
「芸能人でもないのに、エッセイ書いてコンテスト? それ無理だろ」
「エッセイのネタに面白さがあれば、売れるってもんじゃないの」
でございました。
若い頃、なりたかったものってあります。芸能人? 歌手? 俳優? ……いえいえそこではなかった。
過去を振り返ったとき、馬鹿だったなぁと思うことはけっこうあります。というよりも馬鹿なことばっかりしてきてます。
今、自分は35歳。
だいぶ昔、19~21歳くらいの話を書こうと思います。
参考になる事実をひとつ。あの頃と今で変わらないことは、天然パーマの天パー具合!(参考にならねーヨ)。
19~21歳くらいの年齢というのは、中学生高校生よりも落ち着いたとはいえ、バイトしてお金貰えたり、年上の人たちと付き合いが増えたりして、興味が広がり、これまでにも増して妄想が暴走してて当然の年頃ですから、重要な、基本的なことをけっこうすっ飛ばします(ん? こういうの、自分だけ?)。
妄想天国、そのあと地獄って(誰か言ってそうなセリフ)。
まあまあ、大切なことをすっとばしてしまうというのは妄想のなせる技でありまして、「本当のところはこういうことと、こういうことを通過しないといけないんだなぁ」なんて気づいたりすることの、とっかかりが作られたりするわけでありますが(本人が気づかなかったらいつまでも暴走するんですけど……)。
妄想がどくどく膨れて行く。的が外れて、萎む。間違いに気づく。再び、これを繰り返す。気づく。
えー、これを「生きてる」と言います(今、考えた)。
身内だけに文章書いて、配るフリーペーパーがあった(当時、ブログはない)
とある人(男)が、長電話防止のために身内だけのフリーペーパー、というよりも近況報告のほうが合ってるかな、月に1回とか2回とか、プリントアウトして送ってきてたんです。
送ってきてたのが、今から17年とか18年とか前のこと。
自分19歳くらいですね。向こうも同い年だったんですが、けっこういい大学に行ってまして、いわゆる「キャンパスライフ」って奴ですか、そういうのがどどーどーって書かれてました。
「このところこんなことしてますー、こんなこと考えてますー」みたいなのですけどね。
A4で8枚とか10枚とか、読むのにはけっこうなボリューム。
そんなものではありましたが、意外と知り合いでも日々どうしてるかなんて、知らせないと知らないものですからね、面白かった。
今ならブログやツイッターで済むことではあるんだけど、当時はそれを軽々できる環境じゃなかったですらかね。14年15年くらいの間の技術の発展というものは、素晴らしい。
自分はどうしてたかと言うと、パソコン通信時代、ニフティサーブの日記フォーラムなんてとこに出入りしてたくらいですから、とある人に日記風なものを書いて送ってましたね。
いやー、今手元にその日記をプリントアウトしたものがあるんですけど、写真撮って「こんな感じでーす」って、アップするのが躊躇われるくらい、内容がね(ぐはっ)。
20歳ちょいと手前からの読書をばりばりはじめた。書く仕事をしている人たちを知る
自分の誕生日が1月22日だったりしまして、20歳になる年の元旦から読書記録をつけてました(といっても、本のタイトルと著者名と出版社程度のもの)。
たしか、1冊目は五木寛之『大人の時間(上下)』(新潮社)だったはず。風邪引いて、ひいこらひいこらしつつ読んでた記憶がありますよ。
風邪引いてたのはよく覚えてるんですけど、どういう内容だったのか、全く覚えておりません!(自信を持って言うなってば)。
その頃よく読んでたのは、椎名誠、東海林さだお、群ようこ、原田宗典、山田詠美といったあたり。
「本の雑誌」と「ダヴィンチ」は毎月買う、みたいな塩梅。月に25冊とか、30冊くらい読んでたでしょうか。
読書自体は、記録をつける前からぽつぽつしていたんですけどね。冊数が増えたのは、記録を付け出してから。
たけたけっくん「エッセイ書いて仕事に」勘違い劇場のはじまりはじまり。
たくさん読書して、文章書きたい気持ちが沸いた、作家に小説家にコラムニストになりたいという流れはよく聞く話です。しかし、自分はたくさん読書する前からすでに少ない人数とはいえ、読んでもらう文書をそこそこの量、書いていました(余談を書くと、ミニコミ誌も作ってた)。
エッセイの書き方の基本をどこか学校だったり、講座で習ったわけではなく、独学でこざいます。それゆえ、批評性に乏しくなり自分でどこか、自画自賛、うまいと思ってたんでしょう。馬鹿な発言もしてしまいます……。
実際に300枚くらいの長さで、某自費出版社系のエッセイコンテストに原稿送ったりしたこともありました(まあ、自費出版させたいための……もごもご……でしたけど……。その出版社にバイトまで応募してたな……。あっ、手元に原稿ないですが……)。
あと、毎月「公募ガイド」は買って、応募したいコンテストや賞、お題をチェックしてたなぁ……。「エッセイ懸賞」「エッセイ大賞」みたいなの大好きだった。ネタはけっこう自分あるしみたいな感じで……。
「何を書けばいい」のかという迷いより、お題やネタがあればどうにか書きますよという、まるで作家にでもなった気分でいたのです。
受賞作の発表日楽しみにしてたのはここだけの話で。
今考えれば、こういうお馬鹿な感情や行動って、若いときには必要だと思います(批評性を知るために)。とはいえ、当時は気付くはずもなく。
「この先、エッセイ書いて、賞もらったりして仕事して飯を食べたいと思ってるんです。印税……」
渋谷公会堂、というよりもパルコのそばに勤労福祉会館という場所があります。今もあるのかわからないんですが、ここに食堂がありまして、そこそこ安いんです。
当時のファミレス料金からしても安かったと思います。
高校の頃からルノアールに行ったりするところがありましたが、いかんせん高い。なので、安いところで時間長くみたいなところでお茶をするんです。
確か、21歳のときだったと思う。
その食堂でお茶してるとき、とある人に「たけたけっ、この先どうやってくの?」って訊かれたんですね。
よく訊かれる質問ではあります。
いやはやそれにしても、ほんと馬鹿でしたねぇ、私はこう言ったんです。どことなくえなりかずきに似てるって7人くらいに言われてた21歳の私は口を開く……のでした。
「この先、エッセイ書いて飯を食べたいと思ってるんです。仕事にしたいです」
もう、本音も本音でした。普通は隠すことなのかもしれませんが、つるっと言っておりました。
いやはや、渋谷恐いよ(違うだろ)。
ああああっ、今考えても、こっぱずかしい。
エッセイスト、コラムニスト、作家、出版して……。本が売れて。直木賞? うはははっ。印税、印税。
そんなこと頭にありましたね。うはうは。能力、実力がどのくらいあるのかも知らないで。
嗚呼、スキップしながらどこか遠くに逃げたい。穴掘ってる時間はない。
綿矢りささん、『蹴りたい背中2』を書くならこのときの背中がうってつけです!
もうね、このボケにもツッコミにもなってない返事、最低!(そこかよ!)。
なんといいますか、たいした経験もないのに、何か書いて仕事にできるって本気で思ってたんですね。で、いろいろすっとばして、エッセイスト。
何か賞もらったとか、どこかの雑誌の編集部でアルバイトしてるとか、ライターのコネがあるとか、そんなのほとんどなし。
妄想のなせる技、すごい。
とある人は、私にこう言いました。
「あー、それは無理でしょ。今、たけたけっは、芸能人でもないし、有名人でもないし、もちろん人気もないんだから」
青ざめてく、私。芸能人でもなく、有名人でもない。
いやはや、若い。若い。若いですねぇ(人ごと)。
ご覧ください、ワタクシの妄想が萎んで行く瞬間でございます。
「例えばさ、キョンキョン、小泉今日子さんがさ、朝カレー食べましたってananにでも書いたらさ、気になる人多いでしょ? どこの? どんな味の? って。キョンキョンが食べたっていうのだけで売りになるんだから。カレー売り切れちゃったりしてさ。でも、たけたけっが朝カレー食べたって書いたところで、誰の心もまぁ動かないよね? ネタとして価値をもってないからさ。心が動かないっていうことは、お金も動かないってわけ。経済が動くかどうかって重要なのよ……」
$%&%$……(訳・もう萎めません)。
「ma……、まあそうなんですけど……」
「エッセイ書いて飯を食べるなら、有名になるのが先。なんらかの形で有名な人が書いた文章だから、意味を持つの。金になるの」
「a……、wawawa……」
「知名度って大事だよ」
「経済が回るって思えるから、原稿にお金出すの」
(アイスコーヒーについた汗がたらっと、落ちる)。
芸能人でないにしても、有名になること、知名度が必要ということ、今ならわかるんですけどね
確かにそうなんです。そうなんです。物が売れるってどういうことかという話です。
芸能人でも有名人でも人気者でもない私が文章書いて、エッセイストとして飯食べるなんてキビシイ。
自費出版やろ? って言われて終わり。
まあ、よくぞ大それたこと、自分言ったものですよ「エッセイ書いて、コラム書いて、印税で暮したいなんて」。
今こうしてブログのネタにできているから、まあいいか。うん、いいか。
さて、キョンキョンがカレーを食べたと書くことと、私がカレーを食べたと書くこと。
たとえ自分のカレーが100倍高価だったとしても、キョンキョンの勝ちですよ。エッセイ読んだ人がネタにできるかどうかって大切なんですよね。
言い方が良くないんですけど、キョンキョンの「使いどころ」を知ってる人が多いから、カレーの価格が100倍高かったとしても勝てないんです。別の言い方をすれば「知名度」。
私のカレーが100倍高いことが逆に「使いどころ」に拍車をかけてしまうかもしれません。
「高いもん食べればいいってもんじゃない」って。
これは、キョンキョンでなくても、長澤まさみでも、綾瀬はるかでも、堀北真希でも同じ。
使いどころを見つけている人の多さが、人気なわけで(もちろん、ブラスだけでなくマイナスにも働くけれど=不人気)。
そういうものが全くない私が出て行っても、相手にされない。
そういうところで文句を言ってもしょうがないんですよね。
(※この使いどころを知ってるというのは、ただ知ってるということの数段階先にあるようなもので、それは感想(感情)を伴っている。
演技がいい、わるい。この曲がいい、わるい。あの話おもしろかった、つまらなかった、笑った、腹が立った。美人、かっこいい、かわいい、おかしい、なんか気に障る。などなど。
「使いどころ」って、まったく失礼な言い方なのだけど、この言い方がしっくりくるんです)。
今だと、ブログがあるんですよね。エッセイストになるとはほど遠い世界だけど……。
ありがたいことに、ブログがあるんですよ、今は。いくらでも文章を書くことができます。
14年前だと、インターネットはあっても、今のような使い勝手の良さはなかった。だから、ある人が私に言ったことって、とても正しいんですよ。当時の情報の流れからすれば。
そのときから14年が経過しました。
今はブログがあります。
14年前に比べれば、個人が情報をアップすることも容易。これは確かです。アクセスも容易。これも確か。
だからと言って、「ブログで有名になれば、エッセイストでも物書きでも……」という短絡的な話ではないんですよ。
キョンキョンの使いどころを発見した人たちと、ブロガーの使いどころを発見した人たちの間に「差」がある気がするんです。
もう少し言葉を。
キョンキョンの使いどころを発見した人たちの「多様さ」と、ブロガーの使いどころを発見した人たちの「多様さ」。この使いどころの種類には、差がかなりある。
キョンキョンのほうが、ぜんぜん多い。
ブログの使いどころってなんだろう?(ブログでお金を得ること前提で)
人々の「謎」に「これじゃない?」を提示するってこと。
グーグルが検索でやりたいことって、こういうことじゃないかなぁと思うんです。
ブログって、検索されることで安定する方向に向かうわけですけど、そこで求められているのは、検索した「謎」をいかに解いてくれるかってことだと思うんです。
謎というのは、検索ワードの数だけあって、日々膨大な量が増えて行ってる。
ブログは「謎」を解きまくることのできたもん勝ちみたいなイメージが自分にはあるんですよね。
付け加えるとネタの確保という部分も。ネタには謎が介在している。
変なことを書くと、謎が解けることが重要なので、そのブログのアクセス数がナンボなのかって、関係なかったりするんですよ。自分の謎を解いてくれるのかどうかが問題。
月100万PVあろうが「謎」が解けなければ次に行く。でも月100PVしかないブログで自分の「謎」が解けるのであれば、読むと思う。
アクセス数の多さは、謎が解けることにあまり拍車をかけない。
ものすごく人気なブログでも「謎」が解けないんだったら意味を持たない。
キョンキョンの使いどころの発見とは真逆の心模様。
それは、「検索」という行動をさせてしまってることによって、ハードルをあげてるから。
エッセイを書いて印税もらって仕事に……相談・まとめ
エッセイ書いて、仕事にしたいという気持ちは今はないです。
なんといえばいいんでしょうか、露骨に目立ちたくないという気持ちが強くって。
とはいえ、ブログでお金を得るのだとすると、有名になること第一ではなくって、「謎」に「これじゃない?」というスタンスがいいんだろうと思います。
そして、その「謎」というのは、いくらでもある。
以上、エッセイ書いてコンテストで賞もらい、仕事して印税で暮らしたいと無謀にも相談。芸能人でもないのに無理だろと。ネタに面白さがあればいいんじゃないと【ブログ】でした。